【アメリカ合衆国とインディアン】
19世紀のアメリカ史家フランシス・パークマンは,白人とインディアンの接触の仕方の特性について次のように要約した。〈スペイン文明はインディアンを圧殺した。イギリス文明はインディアンをさげすみ無視した。フランス文明はインディアンを抱擁しいつくしんだ〉と。イギリス文明とその後継者アメリカ合衆国とインディアンとの関係の歴史は,大別して次のように時代を区分することができる。第1は軍事的征服と武力抵抗の時代(1600‐1880年代)。(1)植民地時代,(2)独立革命から南北戦争後まで。第2は文化的解体と再生の時代(1880‐1990年代)。(1)部族文化の解体,(2)部族文化の復活と民族自決。全時代を通じて,インディアンの〈清掃〉つまり土地奪取とその地への〈植民〉の政策が,形態はさまざまだが一貫して追求された。
[軍事的征服と武力抵抗の時代]
(1)植民地時代(1600‐1760年代) インディアンと白人との接触は友好に始まり敵対に終わったとしばしばいわれるが,それは事実ではない。イギリス最初の植民地バージニアではキャプテン・ジョン・スミスらははじめから武器をもってポーハタン族を威嚇し,トウモロコシの供出を強制し戦争をしかけた。ポカホンタスとジョン・ロルフの〈結婚の平和〉も,友好というよりは恐怖の均衡であり,1622年のポーハタン族の大蜂起に結果し,以後20年抵抗がやむまで征服戦争がつづいた。ニューイングランドのプリマス植民地の場合も,一方でワムパノアグ族族長マサソイットとは友好関係が結ばれたが,他方で近隣の多くの諸部族とは敵対し,入植2年後の1622年にはプリマス軍はマサチューセッツ族の族長4人を謀殺し,その首を棒に突きさし20年間もプリマス砦の上にさらした。
30年に植民が開始されたマサチューセッツ植民地でも,7年後の37年にピークオート戦争がおこり,500人のピークオート族が虐殺された。ひきつづく白人入植者の土地侵略と伝統文化への侮辱に耐えかねたワムパノアグ族族長メタカムは,1675‐76年に反撃にたち上がり,ニューイングランドの諸部族がこれに連合して,ニューイングランド植民地連合軍と一大決戦を交えた。これをフィリップ王の戦争と呼ぶ。諸部族連合軍は植民地に大打撃を与えたが敗北した。他方,セント・ローレンス川地方に植民地を建設したフランスは,毛皮交易の相手アルゴンキン系諸部族と友好関係を結んだ。またオランダが建設したオルバニー植民地も毛皮交易を通じてモホーク族との友好関係を保ったが,ニューアムステルダム植民地ではキーフト戦争などでインディアンを冷酷に虐殺し土地を奪取した。このようにインディアンと白人との関係は,パークマンの言うように〈文明〉の違いというよりは,主として土地奪取を前提とする農業植民地の建設・拡大か,毛皮交易かという植民の経済的動機によって規定された。
一方,ニューヨーク北部のイロコイ連合は,18世紀前半,英仏両勢力の対立を利用しつつ中立を保ち領土の保全をはかった。南部のサウス・カロライナ植民地では18世紀初頭以来インディアン奴隷狩りと奴隷貿易がさかんに行われ,そのため部族間の対立と戦争が助長され捕虜の奴隷化が促進された。東部森林文化領域南西部の有力部族であるクリーク族やチェロキー族はイロコイ諸族のように植民勢力間の敵対関係を巧みに利用して中立の立場を守ったが,フレンチ・インディアン戦争においてはチェロキー族はイギリスと敵対した。
(2)独立革命から南北戦争後まで(1760‐1880年代) 独立戦争では,大半の部族がイギリスと同盟して愛国派軍に対抗した。そのうち,五大湖周辺の北西部諸部族は,1763年のポンティアク戦争から94年のフォールン・ティンバーズの戦での敗北まで,本国からの独立革命を遂行しつつあった植民地人に対して,自らの自由と解放のために戦ったのである。この戦いは,1812年戦争(第2次英米戦争)の際にショーニー族族長テクムシによってひきつがれ,彼は全インディアンの大同団結を提唱したが,大望を果たせず,W. H. ハリソン将軍に敗れて戦死した。
同じころ南部ではチェロキー族などが文明化政策を受け入れて農業化・文明化への道を歩み,黒人奴隷制度も導入したが,クリーク族の抗戦派は文明化を拒み,A. ジャクソン軍と戦って敗れ,広大な領土を奪われた。こうしてミシシッピ川以東における優位を確立した合衆国政府は,1830年にインディアン強制移住法を制定して,ミシシッピ川以東の諸部族に同川以西への移住を強制した。諸部族は多大の犠牲者を出しながら長い〈涙の旅路〉をたどった。セミノール族は強制移住に抵抗して黒人と結束して戦ったが敗れた。 40年代の急激な領土膨張とゴールドラッシュによって,南西部や大平原,グレート・ベースンや太平洋沿岸の諸部族は,押し寄せる移住者の群れと合衆国軍に初めて向き合うことになり,コマンチ,アパッチ,ナバホ,シャイアン,スー,アラパホなどの諸部族は果敢な抵抗を開始した。南北戦争が起こると,チェロキー族やクリーク族などのインディアン地方(現在のオクラホマ州東部)の諸部族は南北両軍の戦略にまきこまれ,部族間のみならず部族内が敵味方に分かれて戦う悲劇を強いられた。他方,戦争中でもスー族の討伐や,〈サンド・クリークの虐殺〉など大平原諸部族への圧力は一層強まった。南北戦争後70年代をピークとして合衆国軍と諸部族との最後の決戦が合衆国の西半分の各地で展開された。インディアン側は,1866年の W. J. フェッターマン大尉以下81名のせん滅や,76年のカスター連隊のせん滅などの戦果をあげたが,軍事力の格段の違いや,生活資源であるバイソンの絶滅などにより抵抗を継続することができず,保留地に封じこめられた。
[文化的解体と再生の時代]
(1)部族文化の解体(1880‐1930年代) 南北戦争後の急激な資本主義の発展のなかで,牧畜業者,鉱山業者,森林業者,鉄道業者,土地投機業者そして農民は,インディアン保留地の土地と資源に目をつけ,保留地そのものを解体し奪おうとしていた。一方,人道主義的改革家は,インディアンの部族組織と部族文化を解体し,彼らを農民・市民として文明化し,白人市民社会に同化させることを目指した。この経済的欲求と文明化のイデオロギーが合致して,1887年に一般土地割当法(ドーズ法)が制定された。それは,保留地の一部をインディアン個人に単純所有地として割り当て,余剰地を白人耕作者に開放することを規定したもので,軍事力による土地奪取から,法による土地奪取への転機を画した。その後の修正立法措置で割当地そのものにも賃貸制が導入されて,保留地の土地は急速にインディアンの手から白人の手に移った。その結果1887年に1億3800万エーカー(1エーカーは約0.4ha)あった保留地は,1900年には7780万エーカーに,34年には4900万エーカーに減少した。1924年にいたって市民権が認められたものの,白人市民と完全に平等になったわけではなかった。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は,救済を宗教に求め,ゴースト・ダンスやサン・ダンスやペヨーテ信仰が流行した。 (2)部族文化の復活と民族自決(1930‐90年代) 1934年にニューディール政策の一環として制定されたインディアン再組織法(ホイーラー=ハワード法)により,個人割当制が廃止され部族自治と部族共有制が復活されて,ようやく土地の喪失に歯止めがかけられた。さらに各部族に回転資金や教育資金が交付され,経済的向上や教育の改善や伝統文化の復活がはかられた。しかしこれらのプログラムは,保守勢力の妨害により十分な効果があがらぬうちに,ニューディール政策全般の退潮と第2次世界大戦の勃発によって,ますます後退をよぎなくされた。さらに戦後の保守的風潮のなかで,53年にはインディアンの固有の権利を奪い保留地の解体をねらう連邦管理終結政策が打ち出され,メノミニー族などに適用された。これに反対するため61年,全国アメリカ・インディアン会議が開かれ,これを出発点として60年代以降インディアン自身による固有の諸権利の回復と民族自決の運動が展開された。69‐71年のアルカトラズ島占領や,73年のウーンデッド・ニー占拠事件は世界の耳目を聳動(しようどう)した。 これらの運動を推進したのが,1968年に結成された〈アメリカ・インディアン運動(AIM)〉で,74年に AIM は第1回国際インディアン条約会議を主催し先住民族の国際的連帯を目指した。同会議は77年に国際連合によって非政府組織(NGO)として承認され,80年代以降には国連の先住民作業部会で活動を展開した。先住民作業部会は1973年の〈国際先住民年〉とその後の〈国際先住民の10年〉の成立に中心的な役割を果たした。一方,土地の権利,水利権,漁業権をめぐる運動は1970年代以降も各地で展開され一定の成果をあげている。土地の回復の運動は,舞台をインディアン請求委員会から連邦裁判所に移し,メイン州のパサマコディ族とペノブスコット族の勝訴をはじめ,各地で勝訴をかちとり,ブラックヒルズ返還訴訟など現在係争中のものもいくつかある。またウィスコンシン州北部でのアニシナベ族の漁業権闘争や,ミズーリ川上流,コロンビア川,ヒーラ川などの河川や湖沼での水利権闘争も各地で展開されている。 また教育の面でも,従来の強制的な同化政策が批判され,1968年のバイリンガル教育法や78年のコミュニティ・カレッジ援助法などインディアン向けの教育法のほか,一般の恵まれない子弟のためのヘッドスタート計画などが加わって,教育の機会がひろげられ,部族語教育が拡充され,大学進学者も増加した。宗教の面では,78年にインディアン宗教自由法が,90年には先住アメリカ人墓地保護・返還法が制定され,固有の宗教上の権利が保障された。一方,ナバホやパインリッジなどのいくつかの保留地では,地下のウラン鉱の採掘会社の無責任な管理から,深刻な放射能被曝問題が生じている。 また90年の夏には,カナダのモントリオール市郊外で衝撃的な事件〈オカ紛争〉が起こった。ゴルフ場建設に反対して道路や橋を封鎖した数百人のモホーク族〈戦士〉を排除するため,戦車,大砲,ジェット戦闘機を備えた4000人のカナダ軍とケベック州兵軍が出動した。武力征服の歴史は終わっていなかったのである。(引用終わり)
富田 虎男(立教大学名誉教授 アメリカ史)
©平凡社 世界大百科事典 第2版 赤字はポッターマニアが入れたもの
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